〇大衆文学資料

三木蒐一の『地下鉄伸公』 

  ホームズやルパンのパロディは山ほどあるという。しかしながらパロディはパロディでしかないのか、これらは原典を越えて読み継がれていくことはほとんどないようだ。日本の場合などは知的所有権にあまりにも無関心なためか、ルパンの怪盗義賊といった面だけを拝借して、その孫を商業ベースに乗せた漫画の『ルパン3世』がアニメで人気を呼んだこともあって、現在でも市民権を得ているものの、その人気の中、かつて日仏合同により企画された『ルパン8世』は、著作権がクリアできずに放送はおろか、パイロット版を作っただけで製作すらも頓挫してしまったという。
 私の記憶だけでも、知的所有権の問題はこれだけではなく、他の紛糾を忘れないでいるのだから、権利に抵触しない昔には数々の、外国だねによる創作が世にあふれていたようだ。こういった周辺の研究はかつてから種々あり、この連載でも何度か触れてきたのであまり記さないが、同様なケースは時代小説の古典と呼ばれているものの中にも含まれている。
 さて、今稿では大きなストーリーの拝借といった問題を離れて、タイトルからイメージを喚起した一つの作品について云々してみたい。何度も映画化されて数十カ国に知らせれている『快傑ゾロ』の作者であるジョンストン・マッカレーの名は、意外にもホームグランドであったアメリカ本国では知られていないという。このあたりの研究は長谷部文親の『欧米推理小説翻訳史』に詳しく、同書によるとどういったわけか本邦では、おっちょこちょいで人情に厚く、憎めない落語の主人公のようなスリを主人公にした『地下鉄サム』が大正期から戦後初期まで読み継がれていたのだが、発表された本国では単行されることもなく読み捨てられているのが現状であるらしい。そして、地下鉄サムのシリーズは短篇一八二と中編一が『ディティクティブ・ストーリィ・マガジン』に二〇世紀前半を中心に発表されながらも、それだけであった。作者の広汎な著書だけを数えればジャンルを問わなければ五〇数冊を数えるというのに。
 『地下鉄サム』の第一編の翻訳が世に出たのは大正一一年の新青年誌上のことだった。一冊の単行本として新青年誌上に載せられた翻訳がまとめられたのは翌々年の大正一三年の事である。さて、現実の地下鉄はどうだったのだろうか。実際に上野浅草間に東洋初の地下鉄が走ったのは昭和二年である。しかしながら、地下鉄の最初の免許申請は福沢諭吉らによって明治三九年に行われたのを嚆矢とし、それ以後、多くの実業家が申請し当局からの却下を繰り返して、とにかこうにか昭和二年の開業に至ったという。まさに、この申請合戦は帝都高速度交通営団が作成した年表の二頁を埋めつくしている。『地下鉄サム』はニューヨークのメトロに活躍するのは周知のとおり。世界初ロンドンの地下鉄は一八六三年に開通し、一九世紀中にはボストン、グラスゴーだけで、ニューヨークは一九〇四年の事、そして、東京の開通は全世界一五番目ということだった。この当時では翻訳小説とは欧米から移入されたものであるのは当たり前であり、新青年誌を手にするような読者は、欧米が発信する技術には敏感すぎるほど敏感だったのではあるまいか。つまり、すべてではあるまいが、こういった読者こそが『地下鉄サム』を読み継いでいったと思われる。
 翻訳の『地下鉄サム』から影響を受けたものとして、戦前から口にされているのは久山秀子の『隼お秀』シリーズがある。これはマッカレーの『地下鉄サム』の影響をストーリーとしては受けていないのは一読して明らかだが、雑多な人間が入り乱れる繁華街に生きた主人公の、義理人情に通じるものの関連が両者には確かにある。
 浅草公園のアナグラムをタイトルにとったサトー・ハチローの短篇シリーズ『エンコの六』が新青年誌に発表されたのは昭和七年、日本の地下鉄は浅草から神田まで結ばれ、主要駅では〃ストア〃とよばれる今でいうスーパー・マーケットのような量販店や、地下食堂、百貨店が出資し最短距離を実現した直通通路がどんどん設営された、いわば最初の地下鉄爛熟期だったようだ。地下鉄は時代の荒波をくぐり抜けて穴をあけてゆく。日華事変があろうとなんであろうと、実業家の思惑がどうであろうと、結局は浅草渋谷間が開通した。日本の近代史は経済がリードしている現実をあらわしている一例ではあるまいか。
 そして、いささか前置きが長くなったが、ここに紹介する浅草に住んでスリを主人公を登場させた『地下鉄伸公』の登場は昭和一四年以前のことであり、現実の地下鉄の浅草渋谷間が開通した状況や話題性を踏まえて執筆されている。伸公の登場は定かではないが、既に昭和一四年四月号の講談雑誌誌に掲載された『春雨傘の伸公』を読むと、もはや登場人物が連載物として定着し、作者と読者の暗黙の了解が結ばれている様から愛着感が伝わってくる。作者の三木蒐一は本名・風間真一、〃文芸首都〃〃早稲田文学〃に執筆した後、博文館へ入社。編集者時代に原稿を燃やすまでに発展した山本周五郎との真正直な衝突は語り草になっているという。編集者としての裁量はどうであれ、侠骨漢であったことは、ユーモア小説と称される『地下鉄伸公』シリーズの一編を一読すればすぐさま解るだろう。作者には昭和一〇年代中盤に単行本が何点かあるらしいが、あまり知られていないようだ。『地下鉄伸公』自体がさほど有名なシリーズともいえないし、そのうえ、作者自身の知名度が低いのだから致し方あるまい。しかし、再評価は別である。
 今回、読んだ『地下鉄伸公』シリーズは、昭和一四年の一編と、戦後に書かれたものをまとめた昭和二七年刊行の東成社ユーモア小説全集の一冊『地下鉄伸公』と、それに漏れた〃講談雑誌〃に掲載された何編かであったものの、主人公の伸公の性状と登場人物の性格づけはいつも同じに描かれているようだ。伸公、彼は時代を越えてラブコールを送り続けられている町のヒーローなのだ。地下鉄開設により、その賑わいにより輪をかけた人間の坩堝である浅草で、心がきれいで正直でやさしいからこそ窮地に陥ってしまった庶民たちの救世主として求められた人物にほかならない。それは明治以前からある講談などに描かれたヒーローの延長上にあり、明朗時代劇映画、そして雑誌などからはマンネリだといわれ続けながらも、観客の指示を受け続けて長寿を誇っているテレビの一話完結による連続時代劇に発展するものだろう。ひとつ違う点をあげるならば、主人公自体がけっして前面に出ることがなく、物語が完結する点にある。洋の東西を問わず、このような義賊の物語は少なくなく、繰り返し公にされているのだが、三木蒐一の場合の人生や愛情の機微を描く筆は、なんと微笑ましいのだろうか。山本周五郎と四つに組んだ逸話も、さも有りなんと思えるほど風化がない出来栄えを誇っている。ネーミングはマッカレーの影響があるのは明らかな『地下鉄伸公』は、もちろん探偵小説としての昂奮は希薄に違いないものの、探偵小説に一番重要な“秘密”というシークエンスは持ち続けている。というより、書き手の資質にそういったものがあるといった方がよいかも知れない。
 文壇文学に対するものが大衆文学と、ひとことに断言できれば話は簡単なのだが、実際はそうにもいかず、諸氏の意見も別れ、その特異性によって各派各派が論を構築してきたのが、現在の論であるのかも知れない。時代小説と探偵小説の研究は充実しているのは論をまたない。いや、突出し過ぎているのかも知れない。もちろん、こういった仕事が無意味であるなどとみるわけではないのだが。
 こう考えるのも、現代小説、ユーモア小説と呼ばれていた作品に言及した研究が少なすぎると、今稿を書いて痛感したからでもある。これが拙いわたしの資料散策の力の結果といわれてしまえばそれまでではあるが、現代もの、特にユーモア小説などの検索の困難は少なくない。例えば『地下鉄伸公』のように書かれたもののリストだけではなく、どのように読まれ影響力を持ったかという、受容したサイドを中心とした資料の作成は、これまでの研究の流れを考えれば難しい問題かも知れないが、これが出来てこその大衆文学ではあるまいか。

(19- 地下室)

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