〇大衆文学資料
平凡社『現代大衆文学全集』に見る
〃大衆〃の字義

 木村毅によれば、『講談雑誌』(博文館発行)の大正十三年春の号に〃見よ、大衆文学のこの偉観〃と掲されたのが、大衆文学なる新造語の初めての表記だという。その本質や特質は別にして、それまで、全く一般的ではなかった大衆の二文字が流行し、さほど長い年月が経過したわけでもないのに、いつの間にか、一種階級を表す言葉として一人歩きしてしまったような観が非常に強い。伝播の早く人口に膾炙しやすいものほど、変質や空文化が早いことの好例といえようか。
 ちなみに、戦前に一番発行部数が多かった倶楽部雑誌『キング』(講談社発行)の昭和九年一月号の付録である読物辞典『新語新知識付常識辞典』から抜粋すると、【大衆】《漠然たる言葉で、定義づけることは困難であるが、一般に人民を指すこともあり、比較的智的程度の低い人を指すこともあり、単に多くの一般民衆の意に用いれることもある》とあり、【通俗小説と大衆小説とは同じものですか】なる質問に対しては、《意味は殆ど同じものです。従来は通俗小説という言葉しかなかったのですが、それでは少しも新鮮味が感じられないので、新しく大衆小説という名称が案出されたのであります。しかし、通俗小説というと意味が狭くて現代に取材したものとしか云えませんが、大衆小説は、現代物、時代物すべてをひっくるめた広い範囲の小説類に冠せられて用いられております》とある。これでは、文字通り漠然としていて、発生状況や、その当時の意義など読み取ることはできず、また、種々の疑問も残るものの、大衆の二文字が、昭和九年には既に《少しも新鮮味が感じられない》ものとなってしまった事だけは間違いないようだ。諸家紛説あるが、大衆文学は少なくとも命名当時には《比較的智的程度の低い人》に迎合するために生まれたものでは決してなかったはずなのである。
 これまで、字義としての大衆文学の勃興期にかかわった作家達の自分なりの文学論は、白井喬二をはじめ、主要なものが活字化されて流布している。が、それとは別に、以下にあげるものは、大衆文学の文字が大々的に全国に行き渡る機縁ともなった『現代大衆文学全集』(平凡社)正篇四〇巻の巻頭等に掲げられた各作家の緒言(個々によって題名は異なる)を、配本順に適宜抜粋したものである。基準は大衆文学を中心とした各作家の立場や嗜好があらわれている文であり、収録作品だけを云々しているものなど敢えて省略し、また、巻によっては緒言の一行も書かれていないものもあるので注意されたい。ここで敢えて、配本順に掲載したのは、当時に於ける作家の人気も推測できるからである。さて、ここから、名称としての勃興期の大衆文学を統括するもが導きだせるか否か。

〇1回配本 第1巻 白井喬二集 昭和二年五月
  《この小説は日本の幕末を背景としたもので、題名の示すが如く、時代と人との錯綜した争闘史でありますが、その中にはよく伸び切った小気味のよい、人間の一つの生き方を示したつもりであります。されは同じ争闘史でも、悪の影よりも善の影が多く、陰心よりも陽心が多く、そこには何人に読んで頂いても決して悪い影響のないことを作者は一つの本顔といたしました。それゆえ大衆文学第一期の全集に、作者は軽い気持ちで本篇を提供することといたした次第であります》
〇2回配本 第5巻 前田曙山集 昭和二年六月
  《私の作品は、何処までも露払いの陳呉であります。到底他の作家諸先輩のような、立派な作品は、私の企及する処ではありませんが、新聞連載の門を開いて、いささか其俑を作った最初の作品として、御一読を願うのでございます》
〇3回配本 第4巻 正木不如丘集 昭和二年七月
  《私はペンをとって原稿紙に向かう時には、いつもうそをかく気になれないそれはまことでなくてはかくだけの価がないと思うからである/体験をかく事も勿論あるが、霊の上の経験  霊験もまた私にとっては実在である》
〇4回配本 第33巻 国枝史郎集 昭和二年八月
  《作者の持って居る空想境へ、読者諸君を誘って、麻痺陶酔を
強いることによって、読者諸君を喜ばせ、作者自身も喜びたいというのが、是等の作を作った頃の、作者の願いでありました/人の考えというものは、刻々に生長しない迄も、とまれ刻々に移ってはおります。大衆文学に対する私見も、是等の作をつくった時代と、現在とは多少相違しております。一本に纏めて世に問う所以? 一里塚を建てるに他なりません》

〇5回配本 第21巻 沢田撫松集 昭和二年九月
〇6回配本 第3巻 江戸川乱歩集 昭和二年十月

〇7回配本 第31巻 直木三十五集 昭和二年十一月
  《私は、大衆文学の専門作家でなく、他にも仕事をもっていますが、だからと云って大衆物を決して軽蔑してはいません。幾度もお詫びしておきますが、常に追われ勝ちで、書きなぐっていた事が、こういう全集になると、大いに後悔されて、一人でも多くの読者に、私の気持が判ってもらえたらと  云っても始まらぬその愚痴だけです》
〇8回配本 第32巻 三上於莵吉集 昭和二年十二月
  《いつ何を書く時でも、人間の自然な欲望と感情との記述に全力を注ぐだけで、作家としての範疇が通俗小説的であろうと大衆作家的であろうとどうでもいいのです。僕に言わせれば真の文学は恒に大衆的でなければならぬですから、只気の抜けた三鞭酒の如き作品を只ひとつでも書いたら恥ずかしいことだと自戒するだけであります》

〇9回配本 第9巻 吉川英治集 昭和三年一月

〇10回配本 第2巻 江見水蔭集 昭和三年二月
  《自己の想像にせよ、解釈にせよ、其事件当時の世相(或は空気)を無視して、現代人の心理をもって勝手に創作するという新人の手法には全然反対で、自分を旧時代に復元さした心持で、其上でどれも皆筆を進めています。厳密に論ずれば、復元は不可能でありましょうけれど、成し得る限りを其所に試みている。斯ういう流儀の作家も有るという事を、あらかじめお含み置きを願う》

〇11回配本 第7巻 小酒井不木集 昭和三年三月

〇12回配本 第38巻 土師清二集 昭和三年四月
  《講釈師が貼扇を叩くのと、作家がペンを原稿用紙に走らせるのとの相違は、ただぺんと貼扇の相違だけである/高級だとか低級だとかというのは程度の差であって、彼は貼扇を叩いて生活し、これはペンを走らせて生活しているのである。そうして発表するところのものは、世間の嗜好を察してのものであり世間の欲する興味となるもの娯楽となるものであることに変わりない。が、これをもし下等だとか、卑俗だとか考えるのは、怪しげな殻を被っている頭を持っている人である》

〇13回配本 第8巻 長谷川伸集 昭和三年五月
〇14回配本 第39巻 大佛次郎集 昭和三年六月

〇15回配本 第15巻 松本泰集 昭和三年七月
  《私はこの一巻の中に傑作と誇るべきものがあるとは思わない。けれども読むに耐えぬ駄作ばかりだとも思わない。ちょうど私自身がいつものっそりとしているように、私の作品も至極呑気に、のっそりしているに違いない》
〇16回配本 第23巻 本田美禅集 昭和三年八月
  《私のは同じ大衆文学といっても毛並みが少し違っている。目下の定論では、大衆ものには性格描写不必要となっているが、私はそれをやっている/一般作家が現代物取り扱う筆法で時代物を書いて来たので、異なる点は大衆を対象として書いていただけの事。レオナルド・ダ・ヴィンチは文学も絵画のごとくあらゆる階級を通じて歓迎される物でなければ決して上乗な物とはいえないと断言している。私も至極同感なのだ》

〇17回配本 第13巻 松田竹の島人集 昭和三年九月
〇18回配本 第10巻 矢田挿雲集 昭和三年十月
〇19回配本 第22巻 平山蘆江集 昭和三年十一月
〈以下次号〉



《 承 前 》
〇20回配本 第35巻 新進作家集 昭和三年十二月
  《これらの作品は、最近数年間に驚異的進展を遂げ、内容方面に於いては海外の作品をも凌駕する盛況を示した我が探偵小説界の収穫中より、その粋を抜いたもので、謂ば大正より昭和に至るわが大衆文芸壇の一角に輝かしき光彩を放った探偵小説界の記念すべき好個の金字塔である。幸いに愛読を賜え(編者森下雨村)》
〇21回配本 第34巻 村松梢風集 昭和四年一月
〇22回配本 第12巻 甲賀三郎集 昭和四年二月

〇23回配本 第20巻 白柳秀湖集 昭和四年三月
  《本集の作者は叫ぶ。人間は『自分で自分の心が分るものではない』父母を知り、祖父母を知り、社会を知り、地上に生存する有りとあらゆる生命を知って、幾分でも真実に近い人間の心を捉えることが出来る。この悠久な生命の一端である人間の心が社会を知らず、時代を解せざるものに何として把握することが出来よう》
〇24回配本 第28巻 行友季風集 昭和四年四月
  《理屈の嫌いな私に、理屈張った序文は書けません。従って私の作品には一切の理屈を封じてあります。読まれた後のご感想はどうありましょうとも。その色を色とし、その匂いを匂いとして面白かったと歓んで戴けましたら宜しいので。多く読まれ多く歓ばれる、それでこそ大衆通俗本来の目的も充分に達しえられます》

〇25回配本 第17巻 本山荻舟集 昭和四年五月

〇26回配本 第16巻 下村悦夫集 昭和四年六月
 《私が生活の必要に迫られて、この種の作品に筆を執りはじめてから、早いものでもう十年の余になる。今では、文学のあらゆる因子を含んで、社会的にも大きな意味と価値とをもってきた大衆文学… それが新講談という名の下に卑しめられていた当時を顧みると、実に感慨無量である。大衆文学  本当の大衆文学はこれからなのだ。と同時に、その作者の末席を汚している私もこれからだ》
〇27回配本 第11巻 岡本綺堂集 昭和四年一月
  《本集は『玉藻前』と『半七捕物帳』の長篇二種を主として、それに短篇数種を加えた。一般の読者はおそらく『捕物帳』を歓ぶであろうと想像するが、作者しとい更に『玉藻前』の愛読を望むものである。自分の作物に就いて多く語ることを好まない私は、単にこれだけに留どめて置く。他は読者の批判に任せたい》
〇28回配本 第27巻 高桑義生集 昭和四年八月
  《面白いというだけで勿論十分である。が、この面白味の内容が各人違うことはたしかである。また私どもの仕事は、高座の落語や講談や、伝統をもっている錠瑠璃や歌舞伎と違って、いつも新しい創造でなくてはならない。同時に人間社会と深い交渉あるものでなくてはならない。この意味で大衆文学は決して低いものではない。旧来の日本に育った文学とは根本的に、その発生が違う新興の文学である。やや漠とした物言いであるが、これが私の大衆文学である》

〇29回配本 第18巻 村上浪六集 昭和四年九月
〇30回配本 第25巻 伊原青々園集 昭和四年十月
〇31回配本 第36巻 矢田挿雲集 昭和四年十一月

〇32回配本 第19巻 白井喬二集 昭和四年十二月
  《この一巻は、私の「短篇集」として会員諸君に捧げるつもりで編んだ/世間では、往々、僕を目するに新撰組、富士に立つ影、等を挙げて、長篇の白井というけれど、僕は時に短篇の白井にな
りたい事もあるのである》

〇34回配本 第14巻 松田竹の島人集 昭和五年二月
〇35回配本 第24巻 本田美禅集 昭和五年一月
〇35回配本 第40巻 三上於莵吉集 昭和五年三月
〇36回配本 第30巻 前田曙山集 昭和五年四月
〇37回配本 第26巻 土師清二集 昭和五年五月
〇38回配本 第37巻 吉川英治集 昭和五年六月
〇39回配本 第 6 巻 国枝史郎集 昭和五年七月
〇40回配本 第29巻 大佛次郎集 昭和五年八月

 勃興期の大衆文学の大立役者であった白井喬二は、かつて大衆の字義について、それを志の高い人間と規定したことがある。しかしながら、大衆の二文字が拡散と同時に、階級を表す言葉として〈迎合〉の意が見えだして一人歩きしてしまった時点から、大衆文学の名称など変わろうがどうでもよいという立場を表明したことからも明らかなように、内に秘めたものが大きかったのである。かといって大衆文学なる新興であった一ジャンルが白井だけのものではなく、比較的門戸が広く、量的に漠然とした人たちのものであるのは明らかであるため一括はできないが、私個人としては白井の説に大いに賛同したいものである。
 悲しいことに階級の序列にしがみつき、地位の幻想に安住の地を見いだして、自分を中流と自認する向きが九割以上もいる我が日本国民にとって、大衆の二文字は一種階級的差別用語として流布する運命に陥ってしまったと見てもあながち間違いではなく、結局、大衆文学のイメージとして、読み捨ての側面が顕著になってしまった大きな側面は否めないようだ。しかし、執筆当時の風俗生活等を大衆文学は大きく扱うことが多いからその風化が早いとも云われるが、漱石らの風俗に対して同じ説が通じないのは不思議でしかなく、読み手の意識の問題でしかない。
 と、云いながらも、大衆文学の作家と呼ばれ、読者を意識し過ぎ、読者の嗜好に迎合してしまったが故に、仲間意識の幻想を抱いてしまうことが間々ある。そればかりでなく、自分の読者を想定し、対象をくすぐる妙ばかりに秀でてしまい、それはもはや文芸ではなく
なってしまうことも無きにしもあらずであろう。また、謎解きを主眼とする探偵小説の場合は、難問奇問を書き連ねた試験問題のようになってしまったとも云えないでもない。つまり、これらは大衆文学という、一種、特殊化されてしまった名称に呪縛されてしまったのかも知れない。もちろん、大衆文学の作家の総てが、迎合の二文字に当てはまるなどと云っているのではなく、その半面、〃大衆〃の二文字がつかない文学にも、志の高くない作家が少なくなくいるのは当たりまえであるのだから、ジャンルに責任はあるまい。
 最初に記した通り、大衆文学勃興期と呼ばれる時代に、いち早く大きな規模でまとめれた『現代大衆文学全集』に収められている緒言に統一性を見いだそうとしたのが、この稿の目的だった。比較的多く語っているのは、以前からの書き手たちであり、彼らは自作の地位向上を喜びながらも、かといって自分の書く作品が変わることはないとの立場は崩していない。また、多くの若い書き手たちが、作品やジャンルについてあまり語っていないが、言が少ないからといって何も考えていないというわけではあるまい。当地下室と一番関係のある、新進の探偵作家だけで編まれた『新進作家集』などは、当時、まだ異端視されていた大衆文学のなかでも異端的な一冊ともいえるだけに、刊行の喜びの半面、大衆文学の一角の探偵小説という意味での編者の戸惑いが伝わってくるようだ。要は、各人各様、結局、作者個人個人の情熱の問題でしかなく、どうしても、ここからは大衆文学の統一された思想は鳥瞰できなかったようだ。 もしかしたら、一段低いとされていた、それまでの地位から脱却する事に比重を多くかけてしまったがゆえの、そして、大きく発展しはじめていた、情報の大量消費というマスコミの方法とマッチしてしまったがゆえの、新しい名称がアダになったともいえよう。また、大衆文学の悲劇は、大衆文学とя蜿Oの二文字のない文学に区別してしまったことが差別化の第一歩だったのかも知れない。
 大衆文学を差別してしまったのは、一部の識者や評論家などではなく、誰あろう自分の生活における地位にしがみついてしまった我々読者なのではなかろうか。しかし、嘆くことはない、これから特殊性を踏まえながらも、大衆文学をいい方向にもってゆくもゆけぬのもまた、我々読者次第なのである。
    〈了〉 

(1991-6,7 地下室)

〇大衆文学資料






inserted by FC2 system